北朝鮮内部の変革者の証言録
――月刊『朝鮮』2019年7月号~2020年4月号10回 連載より重点的に紹介(今回第一回目)—―
小川晴久
韓国の人権活動家都希侖(ドヒユン)氏が2014年から2年間北の内部で金一族の体制を転覆しようと努力しているある勢力の一員とSNSで対話した内容の報告が10回にわたって連載された。私がこの連載を知ったのは約10日位前で、当会の宋允復氏が今月2月号所載の北の政治犯収容所に関する証言を世話人メールに紹介して下さったのを介してであった。ネットの検索で都希侖と入れればこの連載をハングルで全て見ることが出来る。ダウンロードして全部読んでみた。とても重要な内容が多かったので、本会報に5回位に分けて重点翻訳してみたい。今回は北の政治犯収容所に関する部分である。原載では『死生決断対話録』。対話者の2人のごく簡単な紹介を始めにする(文責小川)。
〈都希侖氏について〉1967年生。延世大学大学院社会福祉学修士。学生運動で2年投獄。興士団勤務後、北朝鮮脱北者救援活動に従事。被拉脱北人権連帯代表。
〈仮名、最理想、金成日〉北朝鮮内部の体制変革者。エリート階層の一員。化学工学に詳しく、保衛司令部の一員。ハバロスクで派遣伐採労働者を管理しながら、都氏とSNSで交信し、2016年頃本国に戻り、以後連絡不通。生死不明。
北朝鮮政治犯収容所は金日成が作った
1956年8月宗派事件から。物凄い広い連座罪制を伴って。
最氏が語る。「国連が想定している政治犯収容所は、農場管理所と管理所を言う。先ずどんな国にもある一般犯罪者を収容する労働教化所があり、保安部(警察)が管理する労働鍛錬隊(南朝鮮の三清教育隊と同じもの――訳者注、全斗煥時代のもの)がある。そして全ての家族と共に入っていなければならない労働管理所(訳者注:革命化区域)があり、本人だけ入れられる管理所(訳者注:完全統制区域)がある。
正常な社会の矯正施設は大部分拘置所と教導所であるが、北朝鮮のような共産体制は、一般的な矯正施設の外に、特に政治犯のような場合、北朝鮮では民主人士たちが該当するが、彼らは全て正式な裁判など経ないで、国際社会が言う政治犯収容所、北朝鮮式の名称としては「管理所」に収容され、永遠に社会とは断絶されたまま、生きていかなければならない。」
「政治犯収容所問題は、我々の組織(訳者注:内部の反体制組織)でも深く研究する対象であるため、収容所撤廃問題も実情(実相)を国連やあなた達はよく知らなければならない。」
「政治犯収容所の公式名称は、“国家安全保衛部農場管理所”である。初めて出来たのは、1956年8月党中央委員会政治局全員会議で、当時の北朝鮮の党と政府の過半数の閣僚が、金日成に集中した権力を民主主義共和国の性格に合うように、独断的に集中処理するものではなく、民主主義的に全ての内閣の成員の意見を収斂して、全体的討議を経て、過半数が賛成すれば、可決して執行する体制を打ち立てようと会議の案件として提出したが、その時生じたものである。
会議の案件は、人民経済の遂行と関連した問題を討議するようになっていたが、この会議を通して金日成の独裁を阻止させる体制を打ち立てることに対する決定を採択しようとすでに約束した過半数の閣僚が、会議の案件とは別の問題を持ち出してきて討論を止めるや、会議を休憩にして、こっそりと会議場を抜け出した金日成が軍隊を動員して案件の提起者と案件を支持する閣僚全てを逮捕して起きた事件が8月全員会議宗派事件であった。」
〈都希侖氏の補足(8月宗派事件に対する)〉
「戦後(朝鮮戦争後)の復旧建設資金を調達するため、金日成がソ連と東欧国家巡訪の途に出向くや(6月1日~7月19日)、その間隙に乗じて反金日成勢力が結集し始めた。当時ソ連大使イワノフがその背後にいたこともよく知られていた事だ。慌てた金日成が早期に帰国して、8月2日に予定されていた中央委員会総会を8月30日に延期して事前に対処し、1956年8月30日に平壌芸術劇場で朝鮮労働党中央委員会全員会議が開かれた。商業相尹公欽が討論者として現われ、突然金日成指導部を攻撃した。その内容は余りにも当然な失政に対する批判であったにも拘わらず、彼らは全て党職を剥奪され、“反党宗派分子”として追い込まれた。大部分の中央委員が金日成を擁護したためである。尹公欽、徐輝などは党から追われ、延安独立同盟系列の指導者崔昌益とソ連系列の内閣副首相朴昌玉などは党職を剥奪された。こうなったので、尹公欽などは徐輝、李弼奎と共に中国に亡命した。
しかし状況は金日成にも侮れなかった。中国の国防部長彭徳懐が平壌にやってきて、反対派の頼みを聞き入れ、反対派を後ろから煽ったソ連側も、副首相ミコヤンを送り、彼らを助けた。金日成は一歩下がって彼らの地位を回復するしかなかった。しかし二人が本国へ帰ったあと、金日成は反対派の粛清を本格的に始めた。粛清作業は1958年3月まで進行した。」
〈連座罪の家族・親戚の範囲〉 恐怖の広い範囲
最氏語る。「この時逮捕した閣僚中、ソ連と北朝鮮の二重国籍を持つ者たちはソ連に追放し、残りは処刑するか監禁した。この時連座罪法を作ったが、逮捕した閣僚たちの関連部署で彼らと連携していたという人たちと彼らの家族、親戚まで全て逮捕した。
逮捕された人の中には、全員会議に参加するクラスでない、傘下部署の官僚たちとそれと連関した家族、親戚などが、絶対多数であった。彼らは理由もわからず逮捕された状況であった。ここで問題となるのは、最初に逮捕する時は、会議の参加者だけに該当したが、のちに金日成の指示で、本人たちの家族、親戚と、連関したと認識される人々、そして又彼らの家族、親戚まで、全て逮捕したのである。
その時当時彼の指示を実行した内務省が、“家族、親戚とは、どこからどこまでかと問い、彼らを監禁すれば、その数は大変な数になるので、どこに収容するか、またかれらの刑量はどこまで適用するのか”と具体的な指示をしてくれるように金日成に要求した。この時金日成が考えて語ったことが、永遠に変更することなく北朝鮮の収容所管理規定になったのである。金日成の指示は北朝鮮の内部機密文書に記録されている。当時住民登録体系が立っていない北朝鮮の内務省(警察)としては、親戚関係を規定することが出来なかった。当時は保衛部がなく、内務省の中に政治保衛部署があっただけであった。
金日成は、家族は本人と父母、兄弟である場合、息子であれ娘であれ、家庭を成し、分かれて住んでいても該当し、親戚としては父方として8親等までの全ての兄弟、叔父と甥(姪)とその妻まで、母方としては4親等とその妻まで、未婚の4親等の姉と妹まで、妻方としては義父、義母、義兄、義弟、また彼らの妻、未婚の義妹まで属し、父の姉妹(おば)方としては、おば4親等、未婚のおば4親等の妹まで、おば4親等の妻まで、母の姉妹とその夫、母の姉妹4親等の兄弟とその妻まで、未婚の母の姉妹4親等の姉妹までが、親戚となり、その範囲を大きく捉えた。」
「我々朝鮮民族の場合、このように親戚関係を捉えると、互いに顔も知らない人が半分を越え、親戚たちを通して名前をきいたことがある親戚は30%以上となる。だからほとんど大多数がわけがわからないあいまいな人たちから成る。
またここで父方は余りに広く捉え、母方は相対的に狭く捉えているが、これは金日成自身が成長過程で母方の親戚たちとの往来が別になく成長した環境とも関連がある。
このような規定で逮捕すれば、本人一人当たり、私生児を除いて100名から150名程度となる人員として、それを執行する保衛部の高位層官吏から下級公務員に至るまで、ゾッとする範囲である。
このような規定は余程金日成に忠実でも、いつ、どこで、どのように関わりあうか誰もわからない範囲であり、一部類階層(訳者注:最高位の官僚たち)から四部類階層(注:60%の庶民、闇市で生活する人々)に至るまで、恐怖に陥れる範囲として、万一このような連座罪法が撤廃されたら、金正恩を除いたすべての人が万歳を叫ぶ恐怖の範囲である。
実際1997年黄長燁が韓国に亡命したとき、北朝鮮がその家族、親戚150余名を処刑したと私の口で発表した。」
〈 刑量、監禁する場所〉
「刑量はどの程度適用すべきか、指示事項によれば、“反革命犯罪者は永遠に教化できない”という指示を下し、彼ら全てを終身懲役者と規定した。次に“彼らを、今ある教化所(注:刑務所)ではなく、深い山の中に外から隔離された区域を作り、そこから永遠に出られないようにし、その存在は北朝鮮の人々にも知らせないようにし、その中では結婚による人口増加を徹底して阻む。こうすれば彼ら全ては歳を取って死亡して、将来その農場をなくせ”と指示した。そして彼らには“最小限度の食糧と衣服を供給し、その子女に対する教育も字(文)がわかる程度に止め、農場運営で上がる生産物は内務省で消費せよ”と管理運営に関する具体的な指示を下達した。
「収容所の撤廃は、金氏王朝が崩れれば、自然になくなるものではあるが、金氏王朝が存在する状況で収容所撤廃運動を展開しようとすれば、その実行者たちの思想動向状態と利害関係をよく把握することに根差して戦略と戦術を立てれば、成果を収めることが出来ると思う。だから長文の説明ではあるが、よく聞き届けてくださることを願う。」
〈金日成がこのような収容所を作った理由〉
「我々の組織は、金日成がなぜこのように残酷に政治的反対勢力と関係者たちの範囲を広く捉え、彼らの肉体を抹殺し、彼らの精神状態が外部と接触できないように遮断する閉ざされた区域を作ったのかに対する討論を多くした。」
7歳で獄中の父を見舞った経験から
「それは金日成の政治的思想状態の成長過程と関連する。金日成の父金亨稷は民族
主義者として反日独立運動を示した思想運動家である。彼の精神状態が成長した時期は、李氏王朝の最後の時期で、国権回復後国の統治方式は封建的君主制であった。
金亨稷が植民地反体制思想運動として逮捕された時、金日成が平壌監獄で監獄生活をする父を始めて見たのが7歳と時である1919年であった。金日成は父を見ながら、彼を監禁した日帝に対する反抗意識が大きく生長し、また自分はここで経験と教訓を得て、新しく果敢な反日闘争をしなければという決心を持ったと回顧録に明らかにした。
結局“父を逮捕するとか処刑する時、息子を生かしておくと、自分の経験から見て、反抗意識がより大きく生長するため、全て殺してなくせば、思想が消滅する”という金日成の“思想消滅論”によって、このような連座罪処罰方式を適用したのである。」
「彼は“あらゆる人は自分の政治的見解は持つことはなく、ひとえに一人の思想と指導に絶対的に従わねばならず、それを拒否することに対する処刑は罪となるものではない”という世界観的思考をする人物であった。そのため彼は別な人たちに政策樹立に対する意見や賛否を問おうとはしなかった。
別の人々が金日成の統治観を理解できないのは、彼が自分の心中の思いをうまく隠すすべを知る性格を所有していたためである。もし全員会議の参加者たちが、彼のこのような措置を取ることを事前に考えたら、別の戦術を使ったであろう。
〈1970年代に入り収容者は増加〉
1970年代に入って、唯一思想体系を打ち建てる過程で、唯一思想体系に早く適用できず、自分の意見を語った多くの人物とその家族、親戚、そして6.25戦争当時敵の機関や治安隊に加担し、殺人蛮行を犯した者たち、南朝鮮出身者として思想状態がハッキリしないと思われた者たち、国軍捕虜の内思想あいまいな者たち、人民軍捕虜帰還兵の中で同様の者たち、8.15光復以前に、国内国外で活動した政治的敵手たちを始めとして、多くの人々が収容所に監禁され、収容所の数も増えた。
こうして金日成が最初に指示した収容所人員の老化による収容所範囲の縮小および廃止は執行されず、むしろ増加した。その実体に対する秘密保障も、国内の住民たちは勿論、国際社会にまで知られるようになった。
〈収容所の位置、人員数、その中の実態〉
収容所の位置や収容所の収容人員、収容所内の具体的な人権状況に対する詳細な材料を列挙することはできない。そのような材料は我々組織の関心外のものであり、その材料を知ってもいない。収容所の人権状況は、すでに外に出ている陳述で十分であり、関係者でもそれ以上のことを知ることもできない。収容所の収容人員に対する統計は極秘事項で、何人かの関係者以外には誰も知らないであろう。」
〈収容所の第二次犠牲者は保衛部であった〉
――特に深化組事件(1996~2000)を通して――
「深化組事件というのが金正日統治時期に入ったら起きていて、この事件を当時社会安全省(現人民保安省)が進めたが、この時逮捕した関連者たちとその家族、親戚たちを収容しようと、国家安全保衛部とは別途に安全省が自分たちの農場管理所を作った。」
「深化組事件とは、金正日統治に入って、多くの餓死者が発生するや、経済破綻の責任を金日成時代に登用された老幹部たちにかぶせ、西北青年会が北播(北に派遣)されたスパイであるとして、すべて金正日の指示によってデッチあげられた事件である。
元来その事件のデッチあげは、国家保衛部がしなければならなかったが、事件をデッチあげろという金正日の指示を保衛部の上層部の幹部たちが無言の抗弁で拒否して、やむなく安全省が進めるようになった。」
「金正日時代の時から、収容所の二次被害者は保衛部であった。初代部長であった金炳夏を据えて、金日成は唯一的指導体制を打ち建てるために、言葉と行動を(金日成に)忠誠にしない多くの4部類に属する人民たちと、1,2,3部類の幹部たちを大量に逮捕し、収容所に送ることによって、じぶんに忠誠を尽くさないと生き残れないという恐怖心を与え、思想の一色化の唯一領導体制を打ち建てた。
しかし余りに多くの人が一言の発言ミスで捕まり、人民の中で不満が起きてくる兆しが現れるや、その執行者である国家政治保衛部部長金炳夏を反党反革命分子として処刑し、保衛部相手に大々的な粛清を断行し、人民たちの不満を全て保衛部へ移し被せた。金日成は自分は全く知らずにいて、金炳夏が首領も知らず、多くの人々を収容所に送ったというものであった。
この時逮捕された保衛部の幹部のうち国家政治保衛部内の将領(所長)1名だけが生き残り、みな処刑された事実は、大量の逮捕がある毎(たび)に、保衛部もそれに劣らない被害を受けたことを物語っている。」
「このような豊富な経験を持つ保衛部の上層部は、1998年国家保衛部を秘密裏に訪問した金正日が4代(ママ)の保衛部長金ヨンリョン(栄龍?)の階級を上将から大将に昇格させて、深化組事件を推進せよと指示を出したが、わかりましたと応答しつつ、無言の抗弁によって、その進行を進めなかった。最後の結果に対する対応が分かり切っているためであった。
怒った金正日は当時中央社労青委員長の崔龍海の賄賂と浮華(セックススキャンダル)を自分に報告しなかったという口実で彼(注:金ヨンリョン)を反党反革命分子として粛清(事務室で服毒自殺)、保衛部内の殆んど全ての将領を安企部(注:韓国の安全企画部)と結託したスパイ集団として追い込み、保衛司令部によって逮捕、取り扱いさせた。このような状況でその事件の捏造(デッチあげ)を安全省(警察)がするようになったのである。」
〈都希侖氏のコメント〉
「北韓の弟(注:最氏=金成日)は国際社会の一般的常識を越える発言をしている。“金氏王朝の維持に一番貢献してきた保衛部が、金氏王朝に対する反感が一番高い”という発言だ。」
〈訳者小川のコメント〉
深化組に対する私の認識は全く不正確で、貧弱であった。ネットのウキペディア辞典の説明を今回参照してみた。相当詳しい説明であった。それも参照しつつ、今回の深化組に関する最氏の証言を読まれたい。ウキペディア辞典の説明によれば、深化組とは社会安全省内部に作られた秘密警察組織で「住民の経歴・思想調査を深く行う組織の意」。当時組織指導部第一副部長であった張成沢を責任者にして実行させた。実際の実行役はやはり組織指導部副部長で社会安全部政治部長であった蔡文徳。深化組の拠点を全国に数百か所に置き、捜査員8千人。1996年から1998年の第一段階と1998年から2000年までの第2段階と二つに分かれる。最氏の証言で一番重要なのは、1990年代後半に大量の餓死者が出た責任を金正日は農業部門の責任者を始め、古参幹部たちに押し付けるため、対象をそういう所にし、第2段階の1998年からは上記のように国家保衛部にそれをやらせようとしたが応じなかったので、国家保衛部の幹部たちも粛清の対象にしたとおもわれる。第1、第2段階合わせ、総勢2万5千人粛清、うち1万人処刑、1万5千人収容所送り(以上ウキペディア辞典)。深化組事件理解で重要なことは、金正日が苦難の行軍と称された1990年代の後半の300万の餓死者を出した責任を自分の核開発等に帰せず、金王朝を支えてきた古参幹部を始めとする幹部たちに責任をかぶせた大粛清であったことである。時期が重要である。1996年から2000年にかけて行なわれた。収容所=政治犯収容所(強制収容所)の第二の被害者は国家保衛部の職員であるという最氏の指摘である。脱北し、キリスト教会関係者に助けられ、また国内の送還されたひとたちも収容所送りされ、国内の反体制者たちも依然として収容所送りされているが、今や権力層までも収容所送りされているという事実を、最氏は指摘している。それが深化組事件という粛清が持つ意味である。最氏が教えてくれた二点(金日成の連座罰法の酷さと二代目金正日の深化組による大粛清の酷さ)をしっかりと踏まえたい。